始まりはSEIKO SUPER TENNIS

始まりはSEIKO SUPER TENNIS

1978年日本プロテニス協会主催で日本で初めてのATP ツアーが開催された。
第1回大会は昔の東京体育館で開催され、当時のナンバー1のビヨンボルグ、ジミーコナーズ、アーサーアッシュ、イリナスターゼら錚々たるメンバーが東京に集結した。

 

運営はD社が担当し、テレビ局、スポンサーとの調整などを行った。スポンサーのためにいかにイベントを成功させるかと、大会事務局で毎日のように会議が行われた。その中で当時人気で発行部数の多い雑誌ポパイにパブリシティを載せようということになり、その依頼をポパイに新聞雑誌局からお願い。何か新しい話題も欲しいのでテニスのことに詳しい人を紹介してほしいと編集部からの依頼で事務局でサポートしていた私が紹介された。
8月に編集部から連絡を受け、その日に編集部に顔を出すといきなり「何か面白いテーマない?明日の朝まで箇条書きでもなんでもいいから10個ぐらいアイデア出して」と言われる。エッと思う時間もなく「よろしくね!10月の大会で1ヶ月間の雑誌に載せるから今日中にないと間に合わない」と軽い感じで迫ってくる。結局徹夜。編集部の活気に押された。その時はモノクロページ2ページにアメリカのカレッジテニスで活躍した選手がやってくるみたいな話を書いた。コナーズやアッシュはUCLA、スタンスミスはUSCと当時はアメリカのトップ選手はカレッジテニス経由でプロになっていた。

 

その時に副編集長から実はテニスボーイという増刊号をやるけど手伝ってよ、と言われ軽い気持ちで手伝います!と言ってしまった。相手は自分の状況を知っているのでそんなに無理なことは言わないだろうと思っていたが甘かった!ほぼ毎日編集部に呼び出され美味しい焼肉、寿司をご馳走され、夜食もありで鶴よしという旅館の借り編集部にほぼ泊まり込みでお手伝い。明日朝から会社なんですけど、と尋ねる。帰っていいよ、という返答を期待していると「では早く終わらせて、朝までに終わらせないとダメだから」と軽くあしらわれる。寝不足だったけど楽しかった。
加えてSEIKO TENNISのプログラムの原稿書きや校正、大会運営のサポートも同時進行。残業時間も軽く100時間を超えた。でも楽しかった。

 

増刊号のテニスボーイの発売日はSEIKO TENNIS の初日。
千駄ヶ谷駅の売店に買いに走ったことが記憶にある。大会はボルグの優勝で幕を閉じたが、何やらテニスブームの兆しと新しいテニスの形が見えてきた。
テニスウェアも白からカラフルに、練習はTシャツでジョグパンツというカジュアルなスタイルもポパイによって紹介され、世界中のテニスブランドも大会やポパイを通じて目にしていた。

 

憧れの選手たちに会え、同じ時間を共有し日本を楽しんでもらい良い関係を構築出来た。
それがテニスの仕事をする上でも種になった。

 

文 宮本 恵造

#S2Otennis

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