Journal
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テニスの話をしよう。
3月末にS2Oと福岡のTHE CLUBHOUSEのイベントが自由が丘のリバティヒルクラブで開催された。久しぶりにテニス好きの人たちと交流した。 最近はジュニア中心のテニスなので、テニス好きの大人とのテニスは新鮮だった。レッスン時間も短いので何かやりたい事と尋ねると「ボレー」との即答に、ボレー中心のレッスンを行った。ボレーは考え方次第で一番簡単に上達が見込めるショットだ。以前アメリカではボレーからレッスンをスタートさせると言われていた時代もあった。スウィング自体が小さいので簡単という考え方だが、バックボレーは中々難しい。 追々技術的な話はするとして、イベント後にTHE CLUBHOUSEの高田さんが昔の雑誌ポパイを持参。テニス特集号を手にして話す内容に世代間ギャップを感じた話。 テニスボーイという増刊号は1978年創刊。一冊丸ごとテニスの話。海外テニス事情、テクニックの話、テニスグッズ、テニスファッション、テニス環境、大学テニス同好会と、テニスの話が満載。その後、年に二回くらいはテニス特集号が組まれ、通常号にもテニスレッスンの掲載をしたりとテニスは一般的に注目されていたスポーツだった。 その雑誌を見ながら可愛いテニス女子の知人がデカラケって何ですか?と尋ねてきた。エッ、デカラケ知らないの?と多分60歳以上のテニス愛好家は驚くはず。でも20代30代の人は始めた時から既にデカラケがスタンダードだからデカラケという愛称に疑問を感じても不思議ではない。 デカラケはポパイの編集長だった木滑良久がプリンスラケットを見て作った造語だが、それが一般的に使われた。ポパイでデカラケ特集をやって、それがきっかけでデカラケが日本で流行り始めたのは事実だ。このデカラケブームについては後程詳しく書こうと思う。勿論ラケットが木製だったことも知らない。デカラケがきっかけでラケットの素材が木製からコンポジット素材になり、木製ラケットが消えた。 ラケットを小脇に抱えて街に出るのがファッションだったなんて、お笑いのコントかと思うかも。80年代、今から40年ぐらい前はテニスが盛んだった事にびっくりするはずだ。あまりにも長くなりそうなので、時代背景やラケット、テニスファッション、テニスシューズ、テニスイベントやテニス番組の話など、古き良きテニスの時代を振り返ってみたいと思う。 文 宮本 恵造 At the end of March, S2O and THE CLUBHOUSE from Fukuoka held an event at Libertyhill Club in...
テニスの話をしよう。
3月末にS2Oと福岡のTHE CLUBHOUSEのイベントが自由が丘のリバティヒルクラブで開催された。久しぶりにテニス好きの人たちと交流した。 最近はジュニア中心のテニスなので、テニス好きの大人とのテニスは新鮮だった。レッスン時間も短いので何かやりたい事と尋ねると「ボレー」との即答に、ボレー中心のレッスンを行った。ボレーは考え方次第で一番簡単に上達が見込めるショットだ。以前アメリカではボレーからレッスンをスタートさせると言われていた時代もあった。スウィング自体が小さいので簡単という考え方だが、バックボレーは中々難しい。 追々技術的な話はするとして、イベント後にTHE CLUBHOUSEの高田さんが昔の雑誌ポパイを持参。テニス特集号を手にして話す内容に世代間ギャップを感じた話。 テニスボーイという増刊号は1978年創刊。一冊丸ごとテニスの話。海外テニス事情、テクニックの話、テニスグッズ、テニスファッション、テニス環境、大学テニス同好会と、テニスの話が満載。その後、年に二回くらいはテニス特集号が組まれ、通常号にもテニスレッスンの掲載をしたりとテニスは一般的に注目されていたスポーツだった。 その雑誌を見ながら可愛いテニス女子の知人がデカラケって何ですか?と尋ねてきた。エッ、デカラケ知らないの?と多分60歳以上のテニス愛好家は驚くはず。でも20代30代の人は始めた時から既にデカラケがスタンダードだからデカラケという愛称に疑問を感じても不思議ではない。 デカラケはポパイの編集長だった木滑良久がプリンスラケットを見て作った造語だが、それが一般的に使われた。ポパイでデカラケ特集をやって、それがきっかけでデカラケが日本で流行り始めたのは事実だ。このデカラケブームについては後程詳しく書こうと思う。勿論ラケットが木製だったことも知らない。デカラケがきっかけでラケットの素材が木製からコンポジット素材になり、木製ラケットが消えた。 ラケットを小脇に抱えて街に出るのがファッションだったなんて、お笑いのコントかと思うかも。80年代、今から40年ぐらい前はテニスが盛んだった事にびっくりするはずだ。あまりにも長くなりそうなので、時代背景やラケット、テニスファッション、テニスシューズ、テニスイベントやテニス番組の話など、古き良きテニスの時代を振り返ってみたいと思う。 文 宮本 恵造 At the end of March, S2O and THE CLUBHOUSE from Fukuoka held an event at Libertyhill Club in...
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始まりはSEIKO SUPER TENNIS
1978年日本プロテニス協会主催で日本で初めてのATP ツアーが開催された。第1回大会は昔の東京体育館で開催され、当時のナンバー1のビヨンボルグ、ジミーコナーズ、アーサーアッシュ、イリナスターゼら錚々たるメンバーが東京に集結した。 運営はD社が担当し、テレビ局、スポンサーとの調整などを行った。スポンサーのためにいかにイベントを成功させるかと、大会事務局で毎日のように会議が行われた。その中で当時人気で発行部数の多い雑誌ポパイにパブリシティを載せようということになり、その依頼をポパイに新聞雑誌局からお願い。何か新しい話題も欲しいのでテニスのことに詳しい人を紹介してほしいと編集部からの依頼で事務局でサポートしていた私が紹介された。8月に編集部から連絡を受け、その日に編集部に顔を出すといきなり「何か面白いテーマない?明日の朝まで箇条書きでもなんでもいいから10個ぐらいアイデア出して」と言われる。エッと思う時間もなく「よろしくね!10月の大会で1ヶ月間の雑誌に載せるから今日中にないと間に合わない」と軽い感じで迫ってくる。結局徹夜。編集部の活気に押された。その時はモノクロページ2ページにアメリカのカレッジテニスで活躍した選手がやってくるみたいな話を書いた。コナーズやアッシュはUCLA、スタンスミスはUSCと当時はアメリカのトップ選手はカレッジテニス経由でプロになっていた。 その時に副編集長から実はテニスボーイという増刊号をやるけど手伝ってよ、と言われ軽い気持ちで手伝います!と言ってしまった。相手は自分の状況を知っているのでそんなに無理なことは言わないだろうと思っていたが甘かった!ほぼ毎日編集部に呼び出され美味しい焼肉、寿司をご馳走され、夜食もありで鶴よしという旅館の借り編集部にほぼ泊まり込みでお手伝い。明日朝から会社なんですけど、と尋ねる。帰っていいよ、という返答を期待していると「では早く終わらせて、朝までに終わらせないとダメだから」と軽くあしらわれる。寝不足だったけど楽しかった。加えてSEIKO TENNISのプログラムの原稿書きや校正、大会運営のサポートも同時進行。残業時間も軽く100時間を超えた。でも楽しかった。 増刊号のテニスボーイの発売日はSEIKO TENNIS の初日。千駄ヶ谷駅の売店に買いに走ったことが記憶にある。大会はボルグの優勝で幕を閉じたが、何やらテニスブームの兆しと新しいテニスの形が見えてきた。テニスウェアも白からカラフルに、練習はTシャツでジョグパンツというカジュアルなスタイルもポパイによって紹介され、世界中のテニスブランドも大会やポパイを通じて目にしていた。 憧れの選手たちに会え、同じ時間を共有し日本を楽しんでもらい良い関係を構築出来た。それがテニスの仕事をする上でも種になった。 文 宮本 恵造 #S2Otennis
始まりはSEIKO SUPER TENNIS
1978年日本プロテニス協会主催で日本で初めてのATP ツアーが開催された。第1回大会は昔の東京体育館で開催され、当時のナンバー1のビヨンボルグ、ジミーコナーズ、アーサーアッシュ、イリナスターゼら錚々たるメンバーが東京に集結した。 運営はD社が担当し、テレビ局、スポンサーとの調整などを行った。スポンサーのためにいかにイベントを成功させるかと、大会事務局で毎日のように会議が行われた。その中で当時人気で発行部数の多い雑誌ポパイにパブリシティを載せようということになり、その依頼をポパイに新聞雑誌局からお願い。何か新しい話題も欲しいのでテニスのことに詳しい人を紹介してほしいと編集部からの依頼で事務局でサポートしていた私が紹介された。8月に編集部から連絡を受け、その日に編集部に顔を出すといきなり「何か面白いテーマない?明日の朝まで箇条書きでもなんでもいいから10個ぐらいアイデア出して」と言われる。エッと思う時間もなく「よろしくね!10月の大会で1ヶ月間の雑誌に載せるから今日中にないと間に合わない」と軽い感じで迫ってくる。結局徹夜。編集部の活気に押された。その時はモノクロページ2ページにアメリカのカレッジテニスで活躍した選手がやってくるみたいな話を書いた。コナーズやアッシュはUCLA、スタンスミスはUSCと当時はアメリカのトップ選手はカレッジテニス経由でプロになっていた。 その時に副編集長から実はテニスボーイという増刊号をやるけど手伝ってよ、と言われ軽い気持ちで手伝います!と言ってしまった。相手は自分の状況を知っているのでそんなに無理なことは言わないだろうと思っていたが甘かった!ほぼ毎日編集部に呼び出され美味しい焼肉、寿司をご馳走され、夜食もありで鶴よしという旅館の借り編集部にほぼ泊まり込みでお手伝い。明日朝から会社なんですけど、と尋ねる。帰っていいよ、という返答を期待していると「では早く終わらせて、朝までに終わらせないとダメだから」と軽くあしらわれる。寝不足だったけど楽しかった。加えてSEIKO TENNISのプログラムの原稿書きや校正、大会運営のサポートも同時進行。残業時間も軽く100時間を超えた。でも楽しかった。 増刊号のテニスボーイの発売日はSEIKO TENNIS の初日。千駄ヶ谷駅の売店に買いに走ったことが記憶にある。大会はボルグの優勝で幕を閉じたが、何やらテニスブームの兆しと新しいテニスの形が見えてきた。テニスウェアも白からカラフルに、練習はTシャツでジョグパンツというカジュアルなスタイルもポパイによって紹介され、世界中のテニスブランドも大会やポパイを通じて目にしていた。 憧れの選手たちに会え、同じ時間を共有し日本を楽しんでもらい良い関係を構築出来た。それがテニスの仕事をする上でも種になった。 文 宮本 恵造 #S2Otennis